「教えるとは、希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと」 (12.10.29)
我が事ですが、家族の二名が教職にあることもあって、「教育」にまつわる話が頻繁にあります。
最近、フランスのレジスタンス詩人ルイ・アラゴンの詠った「教えるとは、希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと」の一節が話題になりました。
この詩が出された時代背景はきわめて熾烈で、生と死が隣り合わせの時でした。アラゴンは1943年ストラスブール大学の数百名の教授学生がナチスに銃殺、逮捕されたことを題材に「ストラスブール大学の歌」を書きました。
ストラスブール大学はナチスの戦火を逃れてフランス中部に疎開し新たに開学しました。その困難の中でも大学を続けたのです。そこではまさに教えることが希望を語ることだったようです。
振り返って、近年の企業ではどうでしょうか。企業経営では、目先の成果を追い求め、学び育つということが「コスト」として忌み嫌われるような扱いとされているような気がします。また、現代の日本で希望を持てない若い人々が増えているような気がします。「作業をすること」を教えられることがあっても「希望を語る教育」にまではなっていないような気がします。
合同経営は、専門知識を身につけて、社会で役に立つ専門家として育つことを基本理念としてきましたが、果たして日々の業務についての教育が「目先の作業教育」になってしまって、視野が狭くなっていたのではないか、自省することが多々ありました。
アラゴンの詩の、「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」と続きます。
社員にとって学ぶとは何でしょうか。「知識を増やすこと」「技術を身につけること」「資格を得ること」、それらはいずれもとても重要です。
しかし、これらは学びの結果です。学びにはプロセスがあり、それもまたとても重要なことだと思います。それをアラゴンが「誠実」という言葉で表現していることは意外なことだと思います。
考えてみると、学びにおいて「誠実」は二つの意味で重要だと思います。
「知的な誠実さ」は学びの質と量を規定します。知的な誠実さの対極にあるのは「知的な傲慢さ」や「知的な怠惰」ではないでしょうか。
私たちは一度聞いたことや知っているような事柄について改めて聞いても、あまり深く考えません。しかし、そもそも自分の知識は正確であったかどうか、同じことが別の文脈、別の状況の下で別の意味を持ちはしないかが問われなければいけいでしょう。
同じことを取り組んでも、「新しい発見はないか」と問題意識を持って取り組む場合と「単なる作業」と割り切って取り組む場合とは、後ほどには大きな差が出ることは容易に想像できます。いつも「前のとおり」「誰かのいうとおり」やる人との差も歴然でしょう。
いま、再び、そうした意味から、このアラゴンの「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という言葉を深く考え、企業経営にも生かしていく必要性を感じています。(林哲也)