「家で死ぬ」こと (12.2.17)
今年は、医療と介護の同時報酬改定の年ということもあり、医療と介護の機能強化や連携が話題となっています。
難しく言うと、そういうことだが、話を聞いていると「これからの超高齢化社会において病院や施設をこれ以上増やさずに、在宅(家)をベット化していきたい」という費用対効果の観点での政策変更の趣旨に受け取れます。昨今では、在宅で看取られることはごく希なケースで、圧倒的に病院で亡くなっており、医療費高騰の原因のひとつとか。
在宅介護を「銭金勘定」という視点で見続けていた昨今ですが、たまたま通りがかった書店で手に取ったのが「看取りの医者」(著者:平野国美氏 小学館文庫)でした。
難しく言うと、そういうことだが、話を聞いていると「これからの超高齢化社会において病院や施設をこれ以上増やさずに、在宅(家)をベット化していきたい」という費用対効果の観点での政策変更の趣旨に受け取れます。昨今では、在宅で看取られることはごく希なケースで、圧倒的に病院で亡くなっており、医療費高騰の原因のひとつとか。
在宅介護を「銭金勘定」という視点で見続けていた昨今ですが、たまたま通りがかった書店で手に取ったのが「看取りの医者」(著者:平野国美氏 小学館文庫)でした。
衝撃でした。多くの病院の医師は「一分でも一秒でも生かす」ことが勝負と考えているので末期においては、電気ショックで心臓を動かし、気管挿管で呼吸をさせ、胃ろうやチューブで栄養を送り込みます。
しかし、生きているはずなのに、大切な家族との会話は遮断され、死につつある人との交流は全く追いやられる。
こういう看取りはしたくない。
10年前に、私の母も、労災病院でがん手術をしたのですが「手術は成功」と説明を聞いた数日後に、いきなり院内感染に。苦しむ母の気管から空気を送り込む、気管挿管が勧められ、それっきり話は出来なくなり・・・・・・とお定まりの手順。
「一分でも一秒でも生きて」と思う一方で、話しあうことなく1ヵ月近くが経過し亡くなりました。その頃の思いがよみがえりました。
そう言えば、7年ほど前に、知人のNさんのお母さんのケアプランを、併設する「県ケアマネでお願いしたい」と依頼されたことも思いだしました。Nさんのお母さんは血液の難病で余命についても数年と診断されていました。二人の娘は既に嫁いで在宅で一人暮らしでした。医療と介護、夜間の娘の輪番での宿泊介護で3年間を在宅中心で過ごしました。
お母さんが亡くなった後、Nさんと話をしたときに「最後の1年は母親と徹底して話し合えたので、何の悔いも残らず看取れた」と清々しい笑顔でした。
「医療介護の機能強化と連携」という政策が出された今こそ、看取りの有り様について、国民的に考えるべき時期となったと思いました。
早速、家族には「私への無意味な延命治療は絶対拒否する」と宣言しておきました。
本書が、医療や介護に関わる人だけではなく、広く心ある人達に読まれることを願います。(林哲也)