誰そ彼 (13.7.2)
「黄昏(たそがれ)」という言葉の語源をご存じだろうか。薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、「誰だあれは」という意味で「誰そ彼(たそかれ)」と尋ねるところから、「たそかれ(たそがれ)」は夕暮れ時をさす言葉となったそうだ。
つい最近のそんな黄昏時、こんなことがあった。夕食後、用事があって、近所まで妻といっしょに歩いていたときのことである。舗道上にできた街路灯の灯りのかたまりの向こうから、小さな灯りがゆらゆらと揺れながらこちらに近づいて来た。灯りのかたまりに入る少し手前で、それが自転車のライトであることと、その主が高校生っぽい男の子であることがわたしにはわかった。その瞬間、隣で「おかえりっ」と妻が大きな声を発した。「えっ!?違うやろ・・・」とわたしは小声で言った。少年は灯りのかたまりに入ると同時くらいに、「ただいま」とちょっと無愛想に返してきた。よその子と思ったが、部活を終えて帰って来た我が息子であった。
黄昏時・・・。わたしには、まさに誰そ彼時であった。わたしは自分の子がわからなった。薄灯りの向こうの少年の姿を、我が子のそれと見取ることができなかったのである。腹を空かせて家路を急ぐ我が子を見送った後、ちょっと息子に悪い気がして、自分のことも少し嫌になった。「なんでわかったんや?」と妻に尋ねようとしたがやめた。答えはおおかた想像がついたからだ。わたしにはわからなくても、いつも子どもたちの一番近くにいる妻にはわかることがある。母性の偉大さに神秘性すら感じた、ある日の黄昏時だった。
(松本 秀紀)